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●公共保育事業はすべての子どものためのものであり、なかでも特に援助を必要とする子どもに対して特別な責任をもつものである。
●入院生活を余儀なくされる子どもに対しては、特別な教育的事業が保障されるものである。
●異文化を背景にもつ子どもに対しては、二か国語の積極的使用と両文化によるアイデンティティーの構築が可能となるよう、公共保育は援助しなければならない。
●公共保育における教育的な事業はケアと福祉を意味し、子どもを総合的な視点からとらえ、社会的な認識に基礎をおくものである。
●教育的原則は、子どもが絶えず学ぶことであり、また学ぶということがひとつの関連性のもとに行なわれることであり、子どものもつ知識や経験から出発するものであり、テーマに基づいた方法が基本におかれることである。そして子どもが構成するグループ自体を重要な資源として位置付けるものである。
●継続性と関連性は子どもの安心感にとって重要である。

 

1930−1940年代:
人口問題委員会のイニシアチブによって始められた就学前保育・教育分野の調査は、質の向上の必要性を指摘し、しかも子どものニーズが中心におかれることの必要性であった。コミューン(第一次地方自治体)が就学前児童を対象とする保育所(daghem=day nursery)や就学前教育(forskola=preschool)を設置し始めたのが1930年代であった(Lindberg&Nordenmark,1980)。就学前保育・教育は、1941年の人口問題調査により再び注目されることとなった。戦争によって影響を受けた労働市場では女性労働力を必要とし、社会的、教育的、労働市場政策的対策が必然となった。1940年代、保育事業に対するコミューンのとりくみは活性化され、保育所数は6%から35%に増えた。1944年度から、保育所設置に対する国の補助金が出されるようになった(Lindberg&Nordenmark,1980)。

 

1950年代:
1946年、保育問題をフォローするための調査があらたに行なわれ、1951年人口問題委員会は保育事業の対策、教育的目的、医学的所見などをまとめた「保育所と就学前教育」という報告書を提出した。この報告書は、50年代の保育事業拡充に大きな影響を与えたが、その一例としてあげられるのが人口1万人以上のコミューンは保育計画は実施するべきであるという提案であった(Lindberg&Nordenmark,1980)。
しかしながら、報告書は具体的な政治決定につながらなかった。女性労働力は一時期ほど必要でなくなり、同時にフルタイム保育も激しい批判の対象となったことが背景にある。したがって、1950年代保育所はそれほど建てられず、1940−50年代が時にはステレオタイプ式に括弧つき「主婦時代」と呼ばれる所以である(Hoem&

 

 

 

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